「空気の研究」の現代語訳

山本七平の「空気の研究」がとても興味深く考察に富んだ本だったので紹介します。この本は凄く哲学的で一読しただけでは理解出来ず、また昔の人(といっても大正生まれ、この本自体は1983年発刊なのでそれ程古典でもない)が書いた本なので、表現も現代人敵に理解しにくい本です。しかし当時でありながら2011年現代における「日本の空気」をピシャリと当てている名著です。


今回のエントリーは「この本を分かりやすく表現しなおす」事を目指して書きました。勿論、一冊の本の内容をこんな短いブログで語り尽くせるはずもなく、当然ある程度情報を欠落、個人的理解から内容改変させています。故に間違いがあるかも知れません。素の状態、そして最高の状態を見たいのであれば本を買いましょう。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))




第一章 空気とは何か(基本ロジック編)

ここは本書の例が一番的確なのでそのまま引用する。

大畠清教授が、ある宗教学専門雑誌に、面白い随想を書いておられる。イスラエルで、ある遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。人骨・髑髏がざらざらと出てくる。こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄して墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。

それが約一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。ところが、この人骨投棄が終ると二人ともケロリとなおってしまった。この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。…ユダヤ人の方は、終始、何の影響も受けたとは見られなかった、という随想である。

骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。
従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。
おそらくこれが「空気の基本型」である。


これは我々が情報を知覚する全てに言える。言語、文字、画像、動画、物質、温度etc...


我々はある情報Aに相対した時、「潜在的に何か」を感じ取り、それに縛られて言動を抑制される事が多々ある。その抑制された状態で結論Xを出す。しかしその抑制から解放された時「なんであんな結論Xを出したんだ?」という状況になる。その「なんで」に対して誰も何も合理的な説明が出来ない。

これが「空気」の概略。



例えば





放射能




この言葉を聞いて何を潜在的に感じるだろうか。自分は「震災、福島原発被災者、DNA、津波、危険なモノ、防護服…etc」という具合に感じ取る。勿論この「」内の言葉は元々の放射能の意味とは全く関係がない。

しかし放射能に関する議論をする際、自分はどうしても「」内のワードを意識しながら討論してしまうだろう。当然、純粋に放射能について語る場合と「」内を意識しながら語る場合では結論が異なってくる。しかし、私は「」内のワードを意識して議論せざるを得ない。
いつの日か、当時の議論内容を見返してみるととても不思議に思うことだろう。「なんで?」と。そして「せざるを得ない」状況に追い込んだのは「」という当時の空気だったのだと思い知る。*1

長くなってしまった。これについて図で示すとこう具合になるであろう。山本七平は概略で言うところの「潜在的に感じる何か」を「絶対化」、それを感じる行為自体を臨在感的把握と表現した。水を差す自由とは絶対化に対抗する手段として現実に連れ戻す行為を差す。勿論「潜在的に感じる何か」は実際には虚無である。故に図でも「雲」の形で表現した。

空気とは「現実の情報」に「絶対化」という虚無の情報を作り出し、それを臨在感的に把握する事だ。

「空気の支配」とは

情報Aが臨在感的把握とその絶対化によって本来の意味を離れ、「情報A」として認識される事。意味合いの比重が「潜在的に感じる何か」の方に強くかかった状態だ。「潜在的に感じる何か」とは本来虚無の情報であるのに、その虚無の情報に集団が振り回される状況。これが「空気の支配」だ。

この場合、情報Aと「情報A」は、別の意味として捉えたほうが早い。そして皆が期待しているのは「情報A」に対する同意なのだ。「情報A」に呼応する内容ならば両手を上げて賛同するが「情報A」にノータッチな内容の場合「意味が分からない」として破棄される。

例えば臨在感的把握とその絶対化によって本来の意味を離れた「放射能」(放射能ではない)の世界では「その存在自体がリスクである」という意味で扱われるのだろう。そしてその「空気の支配」に呼応する情報であれば盲目的に信ずる。「虚無の情報」故に非科学的な事でさえも簡単に信じてしまったり、正確な比較が出来ないが、「何となくそうだよね〜」という感じで集団が固まりやすくなる。

虚無故に比較できない。比較できないが故に鎖国に走らざるを得ない(空気の抑制)

現実の情報というのは比較出来る。例えば放射能というのは電磁波の一種であり、x線やらと比較が出来る。リスク面で語れば、火力発電とでも比較が可能だ。誠に勝手ながら現在の放射線量では統計的に見て人体に何ら影響を与えないことは明白であると思う。しかし、「潜在的に感じる何か」は虚無であり、どうやっても比べることが出来ない。その世界での「放射能」とは科学的定義がらかけ離れ、雲の様な意味合いを持つからだ。比べることが出来ないが「共感するモノが確かに存在する」故にそれを感じる人々が群れをなしてしまう。そして比べられないものを比べようとする人物に恐れをなして強制的に排除してしまい、一種の鎖国状態に陥る。

空気支配を排除するために行う「絶対的な消滅」か否かという二元論(空気の暴走)

「潜在的に感じる何か」とは虚無である。現実、そんなものは存在しない。その虚無を排除しようと決意したらどういう状況になるか。それは詰まることろ「潜在的に感じる何か」の対象を完全に排除するしか無い。「放射能」を排除しようとしたならば放射能はあってはならない対象として絶句し暴走を始める。これは皆誰もが経験しただろう。脱原発の道のりは長く険しいし、今スグになくしたら今年以上に電力不足に陥ることは間違いない。故にこれからも付き合って徐々に比重を落とすしか無いだろう。しかし「放射能」の世界では「排除を阻害するもの」として認識されすぐさま「原発推進派」のレッテルを貼られてしまう。

新聞社がよく二元論で物事を語っているが、その背景にあるのは我々が「放射能」の世界に生きている事をよく理解している為だろう。


別の例をだそう。我々は「死」は怖いと感じている。そして「死」という「潜在的に感じる何か」を完全に排除しようとして翻弄する。その結果「死」というものを無くすべく死に向かい、暴走を始める。この精神を象徴する事例が「神風特攻隊」である。彼らは「死」という臨在感的把握を封殺しようと現実の死に向かった。当時、「死」というものが日本人の「空気」を支配しており「死」の支配からの脱却を果たした彼らを「英雄」と呼んで賞賛した。

矛盾していないか?と思われるが、からくりとしては「放射能」と全く同じである。


余談となるが、ここまでの内容、「空気」による集団行動の抑制と暴走…昔の人々それらを総称して「霊」「悪霊」「鬼」「妖怪」とか様々な言葉で呼んで恐れた。昔からこの「潜在的に感じる何か」による弊害は指摘されていたのだ。

第二章「比較する」とは非人間的対象との比較なのだが…

長い…長いぞ!次回に書き込みます。




んじゃ

*1:勿論、放射能は人骨と違って直接的な影響を与える存在である。しかし「程度」というモノが存在し、以前話題となった「20mSv/y」位なら何とも無い。20mSvと比べるに値するリスクなんて「野菜を取らなかった場合」位であり、国民が声を揃えて罵声を浴びせる「程度」のリスクではない。相対的にリスクを探れば、危険性なんて現在も過去も(福島原発事故前と後で比べても)ほぼ無い。従って現在の放射線量で影響があるとすれば人骨を見て具合の悪くなった日本人と同じように、心理的影響を疑うのが筋であると考える。