自由の正体

こういう話題は、物事の裏側から探りをいれるのが正解だ。
つまり「不自由と感じるのはいつか?」を最初に述べる。その逆が我々が信じる自由の正体である。

  • 高校では不良として先生や社会に迷惑をかけた。結果として就職の時に不自由な思いをした。
  • 大学卒業時には就職せず、自分のやりたい道を突き進む事にした。しかし世間の目が冷たく、親戚が集まる機会がある度に不自由な思いをした。
  • 放射能って危ないよね」と世間が噂していた。自分はその事に知識があり「放射能はきちんと数値を管理すれば健康に影響はない」と教えた。しかし友人の反応が鈍くその後、何とも言えぬ不自由な思いをした。
  • 「俺はミュージシャンになる」と自分の夢を父に語った。しかし家族や親戚から猛反発があり不自由な思いをしながらも自分のやりたい事をやる決意を更に固めた。


大体こんな所だろうか。
「いや、その時こそ自由を感じるっしょ」っていう人いる?(いないっしょ)


これの裏返しが我々の信じる「自由」だ。

  • 中学まではいい子にし、高校では成績も良く、一流大学に入学した。結果として不自由なく就職出来た。
  • 大学卒業時にキチンと就職した。世間も立派だと褒めてくれ何不自由なく親戚付き合いが出来た。
  • 放射能って危ないよね」と世間が噂していた。自分はその事に知識がある事を告げ「もっと危機管理を持たないと、将来大変だ」と肯定の立場を取った。友人の反応も上々で何不自由なく話題が盛り上がった。
  • 「俺は国家公務員になる」と自分の夢を父に語った。家族は大喜びで、学費等の必要経費を出してくれ、何不自由なく自分のやりたい事に集中できた。


★★★★

この事から何が分かるか?我々は「社会に順応して生きる事」を自由だと認識している。冒頭では何故不自由な思いをしたのか?「社会に反発した」か「世間の言われに逆らった」ので結果的に「社会に順応しなかった」からである。

従って「社会に順応しない生き方」をすると我々は「レールから外れる」という表現で、その者を評価し制裁を加える。この制裁を受けると「不自由な思い」をする訳だ。そうならない様に、我々は世間が何かのブームに盛り上がっていたら「私もそれに興味がある」という受け答えをし、常に流行に振り回される生活をしているのである。振り回されると何不自由なく(ギクシャク無くor抵抗もなく)生活出来るから、その状態を「自由」であると認識している。

要は「社会に抵抗しない」事が自由なのである。そこには「自分の意志」はない。自分の意志を捨て、世間の言いなりになるのが自由なのだ。


★★★★

所が西洋では自由(Freedom)の概念が丁度日本と真逆である。つまり「社会に抵抗する事」が「自由」であり、その権利を勝ち得た時が真の喜びである。彼らは「社会に抵抗する権利」がなければ「奴隷」であり、それこそが不自由だと認識している。従って西洋人の歴史は改革という「社会に抵抗する権利獲得」の歴史であり「奴隷解放」の歴史である。


とはいえ、全てに抵抗していたら国家は勿論、自分の身さえ危険に晒される。そこで「ここまでは社会に抵抗しません」という形で契約を結び、その範囲を守るのである。彼らは仕事を不自由な思いをしながらやっているだろう。そしてその不自由が耐え切れなければデモを起こして「社会に抵抗する」のである。

日本人ではこうはならない。仕事をしない方が「不自由な思い」をするのである。従って仕事を与えてくれる会社に対して「デモを起こす」とは一体何なのか、どういう意味なのかよく分からない。デモをした方が不自由な思いをするじゃないか…という状態を創出する訳である。


こういう訳で西洋人が死に物狂いで獲得した

・法的自由…訴訟を起こす権利
・政治的自由…投票する権利
・経済的自由…契約する権利
・信教の自由…思想・信条を選択する権利


というのは日本において機能せず、形だけ「存在する」という事になる。


我々は自由である。
それは選択肢のない拘束された自由だ。