日本人が感じる「自由」

江戸時代の布施松翁がどうずれば人は自由になれるか、というのを論じている。 彼曰く、自然とは全部「からくり」であるという。宇宙は超巨大なからくり、太陽系は大きなからくり、水が高い方から低い方へ流れるのは小さなからくり、琵琶湖のような天然の湖ができるのもからくり。もちろん、人間社会もからくりの一つである。親子関係も、職場関係やら上下関係も全てからくりである。物事には必ずカラクリがあって、そのからくりの中で人間は生きている。だから、このからくりにそのまま身を委ねて、少しの抵抗を感じない状態になって生きるのが人間にとっての自由である。抵抗してギクシャクする方が不自由だ…という論理である。

だいたいこれが、江戸時代の「自由」という言葉の世俗的用法。これって今の感覚にも通じるよね。

例題として身近な事で言えば

  • からくりに抵抗する(上司の飲みの誘いを断る)のは、相当に不自由な思いをする。
  • からくりに抵抗する((職場に出勤せず有給休暇をとる)のは相当に不自由な思いをする。
  • からくりに抵抗する(繁忙期にプライベートな用事を入れる)のは相当に不自由な思いをする。

大きく考えれば
からくり(日本社会)の中で暮らす人々はからくりを変えることができず、からくりの外(外圧)からしか変えられないという皮肉的な論理。

小さく考えれば
からくり(小学生の宿題)に対応することはできるけど、新しいからくりを生み出す事(夏休みの自由研究)はさっぱりダメ、とか。

とても便利な論理である。 個人にとってみれば選択肢もなければやる時期も選べない、からくりとは「やるしかない」事だけど、それをソツなくこなすと感じが良い。不恰好にやっていると焦燥感を覚える。そういう感覚は理解できる。

調べてみるとこれは江戸時代からの一般的感覚らしい。300年前からこの感覚が常識的なものだとしたらそりゃ今も似た様な世の中になるのもしょうがない。

★★★

夏目漱石草枕という作品の中で
「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角に人の世は住みにくい」
という一節がある。

「ものごとを理知的に処理するとトラブルが起こるし、逆に人の気持ちを思いすぎると自分の意見が言えず周りに流される。自分の意思を貫こうとすると不自由な思いをする、人間社会はとにかく住みにくい」というのが大意だろう。

これは布施松翁のからくり論理を通してみるとものすごく理解しやすい。世のからくりに抵抗するという事が、個人にとってどういう意味を持つのかを捉えた一節だ。「これをこう変えた方が世の中良くなる」というのが個人の頭の中に描かれていても、それを実現させるには相当苦労しなきゃならない事を的確に描いている。今も昔もとかく人は変わらない生き物の様で、恨むわけにもいかず、なんとももどかしい。

★★★

4年ほど前も同じような話題を自分なりに考察したが、どうやら昔の人も同じようなことを思っていた様で、 「結局日本人って変わってねーんだなー」と感じる今日この頃なわけです。 自由の正体 - watakenn3の日記

とは言っても、300年も経てば何かしらは大きく変わっただろうと探して見ましたが…

どうやら労働観は変わった様ですよ。 もう少し探求しますが、

今、労働改革云々で盛り上がっている事ですし
過去はどの様に変わったか、これからにどう生かせるか
自分なりに考えないとダメですね。

からくりに頼らずに、自由を感じるためにも。