自己肯定に走る社会

皆さん社会的には大学ってどんな役目を果たすための機関だと思いますか?
「専門的な学業を学ぶ場」でしょうか?…違いますよね。そんなモノ就活してみれば分かると思いますが殆ど役にたちません。大半の企業は「文系理系問わず、人物重視の面接主体で選びます。」という採用方針を打ち出している。って事は直接的には言っていないけど間接的に専門的な学びを否定しているのです。


就職の際、求められてるのは「コミュニケーション能力」と「リーダーシップ経験」「問題解決能力」というのが大部分であるように思います。つまり「専門的な学び」というよりも「総合的な学び」の場だと大学は認識されています。
最近の大学の流れはこれが顕著に現れ、カバー範囲の広い学部、学科を乱立し広く学生に受け入れられている所がそうでしょう。
これとは違った流れとして文部科学省は大学の認定単位の一環として「ボランティア活動」を認めるという動きも活発です。つまり学業以外でも「総合的な役割」という側面を増そうというのが狙いです。またインターン制度という職業訓練的な事に対しても積極的です。

まとめると現在の大学の役割は以下の様に分類され、総合的なものになっています。

  1. 総合的な学業経験
  2. 総合的な社会貢献
  3. 総合的な職業訓練

うわぁ…大学使えねぇ…。なんでって?これから使える人材っていうのは「オタク」何か得意分野、専門分野が一個あればそれが協力な強みになる時代なのですよ。全く逆行した事を日本社会は求め、日本の大学は実行しているという事になります。最近大学の事を就職予備校と呼ぶのは大学の役割が昔より相当曖昧なモノ、範囲の広いモノを担ってる為に起きている現象です。私は大学の事を「総合的人材育成機関」と命名し、それが出現した時期は大学が、大学生が急増した1990〜2000年だと感じています。経済的な理由もあるので1970年代から存在していてもおかしくありませんが流れが加速しだしたのは1990〜2000年辺りでしょう。
社会のふるい、過去、現代、未来 - watakenn3の日記



なんで社会はこれからの世の中で使えるオタクを否定し、使えない総合人間を肯定するのでしょうか??
それは大人の、人事の、会社の人間の自己肯定の為であると私は考えています。今多くの企業で上司として、人事として活躍している人はどんな学歴を持っているでしょうか?ほとんどの場合「大学卒」であると思います。1990〜2000年の正に学歴社会から這いでたモノ…つまり「総合的人材育成機関」から出てきた人間です。


今までの人生を否定する様な人には近寄りたく有りませんよね?どうせなら今まで生きてきた人生を肯定する様な人に入ってきてもらいたいと思うのが普通です。「俺は早稲田から出たんだ。つまり早稲田が多く入ってきたら俺の生き方は正しかったんだ」という風な具合です。日本の場合この気持ちが非常に強いです。なぜなら社会のふるいとして存在しているのが「学歴」だけだからです。学歴社会を否定する採用活動を行うということは「自分は選抜された結果ここにいるのだ」という理由を否定します。自分がここまでこれたのは学歴だという事を否定する…出来ますか?社会が「学歴社会」「総合的人材育成機関」を否定とする流れを作るという事は「俺がここまでの役職に上がってこれたのは別の理由があるからだ」という事を探す流れにもなるのです。1990〜2000年に入社した総合的人材育成機関から出てきたものからしたら頭の痛い話です。


そういう理由で「総合的人材育成機関より選抜された社会」は積極的に学歴社会を否定しようとはしません。「学歴社会」「総合な人材育成機関」を肯定しようとし、その中で優秀な人材をとろうとするとどうなるでしょう?「より総合的な事をしてきた人を高く評価」すればいいんですよ。自分が出世できた理由が「総合的人材育成機関」の優劣ならばより多くの事を体験、経験した人材というのが自己肯定には最適なのです。不況でより優秀な人材が欲しいとあれば「幅広い学業をこなし、幅広い社会貢献をして、幅広い職業訓練をしてきた人材」が総合人材育成機関出身の人間からしたら魅力的な物件になるのです。これからの世の中で使えるかどうかは別として自己肯定するするにはそれしかありません。そしてそれを実現した結果が現在の大学の「就職予備校化」なのです。


学業ではなく総合的な人材を判断するには選考としては「面接」が最適です。ペーパーテスト主体の選考ではそこまで総合的な人材かどうかの判断には不適格だからです。学業に重点を置くわけでないのなら「新卒採用主義」にこだわる必要はなく「中途採用」にもっと門を広げる方が適していると思われますがそれでは自分の出世方法を自己否定する事になるので積極的には出来ません。日本社会というのは自分が選ばれた理由を肯定する為に経済的には不適格な方法であっても肯定する事を好むわけです。
自分と同じ畑からより優秀な人材を選びだすというのは最上級の「自己肯定」だから新卒採用主義をやめられないのです



つまり現在の日本社会というのは「自己肯定をする社会」という事になります。逆説的に言えば「自己否定しない社会」とも言えるでしょう。自己否定とはなんでしょう?謝る事…今までの路線を変更する事…まとめてしまえば社会に今までの自分を否定し、新たな自分を提示する事だと思います。路線変更が効かない社会、環境適応性に疎い社会という事に繋がるでしょう。


自己肯定社会において上司に上がるという事は「いままで以上に自分を否定する事が難しくなる」事を意味します。自分を否定出来ない上司はどの様にして問題が発生した場合対応するでしょうか?問題先送り、部下に問題押し付けトカゲのしっぽ切り…思い当たる節がある人が読んでくれたら幸いです。自ら責任を負って辞任し、自ら問題を解決するなんて風習戦後日本にあったでしょうか?ハードランディングしないように適当な理由付けてソフトランディングをしながら辞任をする…いわば責任のなすりつけ合いをしながらやめていくのが圧倒的です。問題解決は他の人に任せたりするので最後の最後まで自己否定する事を嫌がります。

問題が発生した際は後手後手に自己否定していきながら辞めていくというのが日本上司の正しい姿を捉えているのではないでしょうか?



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今回の震災で東電の記者会見を見ている人は「なんでこいつ謝らないんだ?」「お前が現場にいって検査してこいよ」「後手後手な対応だなぁ」と怒りに震える人も多いでしょう。ですがアレは日本社会の縮図なのですよ。自己肯定社会日本の上司が取るべき姿を見事なまでに表していると感じます。そしてその国民性を見事なまでに表しているのが日本の政府であり、マスコミの姿であり、我々が務めている企業の姿なのです。自己肯定しか出来ないからこそ国際社会に馴染めずガラパゴス化だと比喩される事態が起きているのです。



これを見ている人は是非自己否定をしてください。それがこの国を変える大きな力となります。それが戦後日本〜東日本大震災までの日本と決別し、新たな日本に生まれ変わる為に必要な力だと考えています。


自己否定…してください。お願いします。