無宗教の言葉の裏

「僕が目になるよ!」


というフレーズを聞けば多くの方が「スイミー」を思い出すはずだ。小学校の低学年の国語の教科書に乗っていた黒いお魚の物語。物語の流れは何となく覚えているが、文章の一字一句を覚えている訳ではない。しかしこのフレーズと、フレーズの出典元だけはいまでもはっきり言えるのは幼い頃の学習効果は永続的だという事を示す具体例だろう。ネット社会の出現によって教育の仕方が変わるだろうが、それが人格形成にどのような影響を与えるのかだれもが気になるところである。


ここで一つの思考実験を行なってみよう。

  1. 頭の中で幼い子供と充実したネット環境を用意する。
  2. ネット上ではスイミーの物語や、それを読んだレビュアーの賛否両論の声が誰でもいつでも回覧可能。
  3. 幼い子供はネット上でいつもそれを見ている。
  4. 学校でスイミーを習うのはそれから数年後。

問題:この子供は将来、何を「僕が目になるよ!」の出典元として記憶に留めるのだろうか?
恐らく「スイミー」と答える。何故ならばそれが正しい答えだからである。

しかし残念な事に「小学校の低学年の国語の教科書」というのはすっぽり忘れてしまうだろう。「検索すれば出てくる物語」と知っているのだからあえて教科書という記憶を残す必要がないのだ。スイミーと答えられなければ次に出てくるのは「ネット」が精々である。


★★★★


ここで注目してもらいたいのが「国語の教科書」という出典は忘れ、スイミーというコンテンツだけが記憶に残るだろうという推測である。いうまでもなく「国語の教科書」は特定のコンテンツを集めたコンテンツ集である。

つまり先の思想実験の結果はネット環境によって「コンテンツ集」が忘れ去られ「コンテンツ」のみが生き残るだろうという推測でもある。


★★★★


前置きが長くなってしまった。ようやくタイトルの内容に移れる…
実は同じ事が、宗教観でも起きているんじゃないかというお話。

宗教と一口にいってもそのコンテンツ内容は食生活から集団生活の秘訣、生命観、人との関わり方などの多種多様な価値観、価値基準を私達に与えてくれる。宗教というのは様々なコンテンツ内容を含んだ「コンテンツ集」なのだ。

先ほど、ネット環境によって「コンテンツ集」が忘れ去られ「コンテンツ」のみが生き残るだろうと説明した。

これも同じように「聖書」「キリスト教」「仏教」「道教」という出典元は忘れさられ、価値観、価値基準だけが生き残るのではないだろうか。出典元が忘れ去られるだけで価値基準は生き残るのだから、結局はその土地の伝統に即した生き方をする訳である。変わったのは「宗教」というコンテンツ集が失われた位でその存在を忘れた人は自分の事を「無宗教」と言うだろうが、本質は同じである。


どうやら世界中で「無宗教」が増えているらしいが、その背景には情報、教育環境の充実があるんじゃないかなと思った次第である。価値観、価値基準がそんなに急速に変わる訳がない。価値観が変わるという事は昔の日本と現代日本では会話が通じないという事を意味する。昔の人の「あるあるネタ」は今聞いても「あるあるネタ」であり、これが成立するには同じ価値観、価値基準を共有してなければありえないのだ。