なぜ体罰を認めないのか?

体罰は人間を管理するマネジメント手法の単なる1ツールに過ぎない。自殺にしろ柔道にしろ一連の問題は全て「マネジメントの失敗」であってそれ以上でもそれ以下でもない。

体罰によって精神的苦痛や、ましてや自殺という極端な失敗例もあれば、体罰によって人生が救われたという成功例も数えきれない程存在する。存在して当たり前であり、それは「優れたツールも結局は使い手に依存する」という事実の確認作業に過ぎない。包丁とて料理人に渡せば極上の料理を産むが、狂人に渡せば悲しみを産む。体罰も同様である…という当たり前の話である。


★★★★

体罰というツールは大昔から存在しており、我々の生活の中でもそれが伝統として強力に作用している。万が一、体罰というツールを失えばどうなるか?殆どの体制は崩壊し、ある種の無秩序が暴走を始める。これは自分の人生を振り返れば分かる話であり、会社から体罰(またはそれに近い処置)を失えばどういう状況に陥るのかを考えれば分かる。体罰の問題が水の様にサラリと解決しないのはこうした理由であり、失えば体制が崩壊すると各々理解しているからである。


そういった面では近年盛り上がった「パワハラ」というワードは非常に参考になる議題である。部下が「上司から嫌な命令をされる」事を「パワハラ」としてしまえばあらゆる業務が停滞する。上司は迂闊に部下に命令を下せなくなり、その先に待っている未来は「部下の無秩序の放任」しかあり得ない。そうなれば会社経営が上手く行かなくなり典型的な「マネジメントの失敗」という結果になってしまう。

何事も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であって「行き過ぎ」でも「無さ過ぎ」でも上手くいかない。そういった事実を実感させられた事例といえよう。


体罰も同様である。
体罰なき社会」は「過ぎた体罰社会」と同様に弊害が生じる社会である。無理矢理にでも「体罰なき社会」を目指せば弊害しか起こり得ない。これは江戸時代はおろか「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の元となった論語の時代、2500年前から言われ続けた事だ。

体罰を認めなければ体罰問題は解決しない

もう一度言うが体罰は人間を管理するマネジメント手法の単なる1ツールに過ぎない。ツールは適材適所で扱うべき道具である。ありとあらゆる道具は適材適所でなければ十分な効果を発揮しないのもまた当然の話である。また包丁を例にとろう。包丁も「果物ナイフ」やら「中華包丁」「十徳ナイフ」やら色々な種類がある。パイナップルを切るのに十徳ナイフを使っていたら期待した結果が得られないのは当然だ。適切なツールを適所で使うのが道具の使い方で、我々の日常はツールを理解する事によって成立している。

要は知らなきゃ使えないのである。知るにはツールの存在を「認める」事から始まる。認めなければ全てが「馬の耳に念仏」状態であらゆる言葉を尽くして説明しても無意味だ。そういった意味では原発がいい例だろう。存在そのものを認めない人間には懇切丁寧に説明しても明日には忘れてしまう。認めないだけならまだいい方で「認めず、拒絶する」といった態度になるとあらゆる説明が無駄に終わり、あらゆる関連ニュースに首を突っ込んで喚き散らし、あらゆる出来事に怯える…といった結末になる。こうなると、もうどうしようもない。

「認めない」という態度は問題を解決する行為ではない。問題を棚上げにするor問題として認知しないという態度であるが、認めなくても問題は問題として存在する訳で、認めない限り問題は解決に向かわない。


体罰も同様である。
まず認める事が全ての始まりであり、マネジメントを正しく行うための第一歩である。包丁も一歩誤れば凶器に変わるが、それを防ぐのは第一に包丁の存在を認め、第二に使い方を理解する事だ。体罰も一歩誤れば人を殺すが、それを防ぐには第一に体罰の存在を認め、第二に使い所を理解する事だ。


使い所が悪かったなら
正せばいいだけの話じゃないか…と思う今日このごろ