現在未来形で考える世論

「子供に積極的に放射能について学ばせるべきだ」
原発博士を倍増させるべきだ」
「国は原発関連知識を子供に教える様に働きかける必要がある」

こういう主張を貴方はどう思うだろうか?恐らく嫌悪感を覚える筈だ。中には「なんて非国民な」「子供の将来を真剣に考えろ」という強烈な罵声を浴びせる(浴びせたい?)方々もいるに違いない。

そう、それでいいのだ。この場合
嫌悪感を抱く、時には罵声を浴びせるのが世論的に正しい。この言葉を親戚の前で発言した自分を想像すれば分かりやすい。親戚の口から出てくる言葉は「世間様に申し訳ないと思わないのか」という非難に違いない。日本人ならこの様な世間からの言われ様を予期するのが当たり前だ。

だからこの様な意見を現実では言わずネットで一人綴っているのである。


★★★★

実際どうなのか。「放射能」「原発関連知識」は将来有用な知識、国益に叶う事なのか。
私の意見としてはYESである。所得倍増計画…もとい放射能博士倍増計画ですらあっても良いと思う。

というのも廃炉問題があるからだ。
廃炉ビジネス市場は「これから世界的に」「一気に拡大する」超有望市場である。原発施設の寿命を考えればそれは間違いない。だがこの市場に対して誰も先手を打てる国はない。というのも、そもそも原発廃炉技術を持っている国が世界を見渡しても存在しないからだ。これからくる莫大な需要を迎える為にも世界は廃炉技術を喉から手が出るほど望んでいるといっても過言ではないだろう。

従って安定した廃炉技術を手に入れれば「超有望市場」を「独占」できる。廃炉技術は正にに「金のなる木」なのである。廃炉にかかる期間は数十年なのだから、廃炉技術さえ確立すれば数十年間はお金を儲けられる。

そうと分かれば後は人海戦術である。「金のなる木」市場だというのが分かれば後は放射能博士をどれだけ育てられるかで勝負は決まると言っても過言ではない。1000人の知恵よりも1万人が知恵を出しあった方が、廃炉技術を確立できる可能性は間違いなく高くなる。だから原発博士を倍増させろというのが私の意見だ。


★★★★

この意見は現実ではどう受け止められるだろうか。
答えは冒頭である。正論(?)は嫌悪感でもって否定されるというのがオチだ。要は

「納得できるが現実としてはちょっとなぁ…」
「正論だけど実現はしないだろね」
「世論を考えたら無理だろうなぁ」

という形で、否定されるのである。どうやら「世論」なるモノに否定されるから…というのが理由らしい。


世論の基準

ではこの「世論」は何を基準にして未来を語るのか。正論(?)を退けるこの大きなパワーの源はなんなのか。

それは「現在」という基準を軸にした未来予想方法だ。私はこれを「現在未来形」と名付けた。イメージとしては「現在」の姿をそのまま未来に向けて描写する…という発想である。この思考の前提は「現在の常識」「現在の体制」を永久不変の尺度として国民全体が認識している事である。つまり「現体制」がそのまま「未来の体制」なのだ。

冒頭の嫌悪感をもう一度見てみよう。この嫌悪感は「現在」の常識に照らし合わせて「それは違うんじゃないか」という感情が湧き上がるから発生するのである。そして正論(?)の否定理由も見てみる。この「正論だけど実現しないだろうね」の根拠は現在の常識がダメだから将来もダメだろうねという事であって、やはり「現在」の常識から出発した否定である。

この様に、世論による正論(?)の否定理由を詳しく精査すると「いや、そのあるべき未来像は可笑しい」「私の考える未来像とはこれだけズレている」という未来形vs未来形の形で否定される事はない。全て現在形を基準にして正論(?)を否定しているのである。

我々は基本的に「現在」を未来だと思っており、世論は「現在」を基準にして未来を語るのだ。
これが現在未来形である。


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「いや。私はちゃんと国の将来を考えている」
「あるべき未来をきっちり予測してるよ!」
実際、未来に対して立派な意見を持っている人も沢山いる。


だが、これらの立派な人々も自分の子供にどういう教育をするのかを精査すると、やはり現在の体制をそのまま未来に描写する「現在未来形」の形を取っている。

我々が良かれと思って子供にしている事の一つとして「これから習うこと先取りして教える」がある。
例えば「小学校1年生だけど3年生までの内容を先取りして教える」といった感じだ。塾にしろ家庭教師にしろこの手の宣伝は多い。この手の傾向としては大学受験が最も顕著だろうか。「高校一年の内からセンター試験やってみてはどうか?」という趣旨のCMまで存在している。

「これから習う事を先取りして教える」
立派に子供の「未来」を予想してそれに対して備えている様に見える。

しかしこの未来は「現在の体制」がそのまま続く事を前提とした未来だ。
「小学校1年生だけど小学校3年生までの内容を先取りして教える」の思想の前提にあるのは、小学3生年までの授業内容は「現在」と変わらない…である。現在と変わらないと強く信じているから成立する教育方針であって、成立する(塾を代表とした)事業内容である。「高校一年の内からセンター試験やってみてはどうか?」のCMの前提にあるのは、センター試験の内容、役割は「現在」と変わらない…である。現在と変わらないと強く信じられているから大金を叩いてCMを打っているのである。


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現在未来形の特徴は「現在」の体制をそのまま「未来」に描写する事である。
従って「留年してもお咎め無し」「うちは4月入学だけどお隣の子供は9月入学」「成績表よりも課外活動が尊ばれる世の中」「新卒採用が無くなって社員全て中途採用」「年功序列が無くなる」「正規雇用非正規雇用の格差はなくなる」といった「現在の常識とは異なる未来」がくるとは誰ひとり信じていない。誰ひとり予想しない。現在の体制が未来でも通じる。その未来で子供が上手く適合出来るように準備しなくっちゃ…といった形で教育し、来る未来に備えている。現在の体制を強く肯定する形で未来に備えているのだ。


勿論、「現在と異なる未来」について考えた事はあるだろう。
しかし行動に移すと決まって「現在」の体制から逆算した「未来」なのだ。

要は現在未来形では改革はあり得ない。
あるべき未来、来るべき未来は現在だから改革は不要なのだ。
現在とは違う認識で将来を考えている者…それらは冒頭の正論(?)の様に嫌悪感でもって封殺される。

世論とはそういうものである。