知っている と 「知っている」

東日本大震災から2年以上経過した。このタイミングで語るのが適切だろう。

我々は放射能についてどれぐらい知っているのか?


恐らくこういう答えが返ってくる筈である。

  • 遺伝子を傷つけるとかなんとか
  • 甲状腺がんとか何とかで、とにかく子供に影響がある
  • 低線量だと人体への影響がよく分からないんでしょ
  • 中々消えない。10万年消えないと聞いたことある
  • 除染が大変
  • 奇形児が増えるとか何とか

※ネットから適当にサンプリングした答え

なるほど。皆さん、放射能について良く知っているみたいだ。恐らくこうした話題で色々な人と放射能について会話しているのだろう。


★★★★

しかし全ての答えは「大ハズレ」だ。誰ひとりとして放射能を「知っている」者はいなかった。テストでこういう答えを書いたら先生は大きく☓をつけますよ

放射能について正しく「知っている」とはつまりこういう事である。

放射能(ほうしゃのう、英: radioactivity)とは、原子核が崩壊して放射線を出す能力のことである[1][2][3]。物質は原子でできており、原子は原子核と電子から構成されているが、原子核が状態変化を起こすことを放射性崩壊といい[3]、それに伴って放射線が放出される[3]。全ての原子核が自発的に放射性崩壊を起こすわけではなく、一定の原子核だけが放射性崩壊を起こすが、この放射性崩壊を起こす能力を放射能というわけである[3]。

放射能 - Wikipedia


★★★★

勘の良い人はタイトルの意味も分かるかも知れないね。

我々は、ある知識を持っている事を知っていると表現する。
だが詳しく精査すると、無意識の内に我々は2種類の知っているを使用している。本事例はその典型例とも言うべき事情だ。一応、暫定的に以下の様に意味分類した。

  • 知っている放射能について世間一般が持っているイメージ(を私は知っている)
  • 「知っている」放射能について学術的な意味(を私は「知っている」)


冒頭の答えが 知っている
その次の答えが 「知っている」である。
分かり難いからこれ以降は色分けするよ

★★★★

皆が間違えるのも無理はない。
実は私は冒頭の設問にいじわるな「ひっかけ」を用意した。皆はそれにまんまと引っかかっただけの話である。

東日本大震災から2年以上経過した。
以上が「ひっかけ」の中身である。この一言で皆は騙された訳だ。

説明しよう。
この「ひっかけ」は2011/03/11以降に日本にいた人にしか効果がない。東日本大震災という言葉は2011/03/11の震災の事を示すのだから当然である。私は「東日本大震災」という言葉で「ある種のイメージ」を創出したのだ。そのイメージを最初に連想させる事で放射能の答えを間違った方向へ誘導したのである。

従ってこのひっかけは「東日本大震災」より前の時代には効果を示さない。2000年ではこのひっかけは機能しないし、2010年にも機能しない。2000年に放射能の説明をしろと言って「除染が大変」と答える者はいない。2000年に放射能について聞かれたら知らないと答えるか、wikiを使って放射能について正しい説明をするかの2択だ。


知っている事を重要視する日本社会

以上の事から何が分かるか?
我々の社会では一般的に「イメージ論」(知っている)が大好きなのである。これは2013年現在、放射能について会話する場面を想像すれば理解しやすい。我々は学術的な意味を「知りたい」から会話をするのではなく、皆が持っているイメージを知りたいから会話するのである。
同時に会話を通して学術的な意味での「知っている」トークをする事は異常に難しい事を実感する筈だ。殆どの人はそっちの「知っている」には興味がないのである。イメージ論の知っているには異常なまでの関心を持ち、そのイメージに即した情報を求めている。そして「知っている」知識については異常なまでに正確かつ正しい情報を求め、知っている知識については事実とは違っていようが信じてしまう。


勘違いしないで欲しい。
社会を生きる上では知っている「知っている」も何方も正しいのである。我々は知っているを排除して生活出来ない。同時に「知っている」を排除しても生活出来ない。どちらを重要視するかという問題で、我々の社会は知っているを重要視しているというだけの話である。



★★★★

この知っているについてだが大きな問題点がある。
何度でも言うがこの知っているはイメージである。しかも2013年という「現在」にしか通用しないイメージである。

つまり2013年限定知識だという事。過去にも、未来にも通用しない、2013年「現在」を生き抜くのに必要な知識だという事である。恐らく2014年でさえ通じない知識だろう。従って東日本大震災発生当時の2011年時の知識と、2013年現在の知識では、言葉上は同じ「放射能」でも説明を求めると「異なる答え」が返ってくる。

「知っている」人はこうはならない。過去も未来も放射能の定義は同じだから、放射能の説明はいつでも同じである。だが、我々が重要視しているのはイメージ発の知っている知識であり、イメージ故に定義がコロコロ変わるだけの話だ。


これは放射能だけの話ではなく、「ゆとり教育」「肉食系」「草食系」「文系」「理系」「体育会系」「文化系」「コミュニケーション能力」にも言えるだろう。我々はそれらについて「知っている」事は殆ど無いが、知っている事は豊富にある。知っている知識で会話するのは何時の時代も非常に楽しいものだ。


★★★★

知っているはあくまでもイメージであり虚構に過ぎない。イメージはどこまで言ってもイメージであり、現実を直視する行為ではない。しかし我々の社会は異常なまでに知っている事を大切にしている。


これが過ぎるとどうなるか。

「皆が考えるイメージ」を基準にして物事を考え始める。原発で言えば「推進派」「反対派」という形で、良くあるのは「善玉」「悪玉」論という二項対立である。これらの基準は厳密に定義出来るものではない。というのもここで問題となっているのは「皆と同じイメージを知っているか否か」であり、同じイメージを共有していれば「味方」、違ったら「敵」という思考法だからである。イメージが最重要視される社会では有力な情報フィルターもまた「イメージ」である。

それで正しい対応が出来るのか?
答えは2011年、東日本大震災時の我々の対応の中にある。

知っている「知っている」は適切に使い分けないととんでも無いことになる。

その事を知っておこう。