科学的思考と社会的思考

科学的思考とは「メゾット」(=方法)を指す。

例えば23×13の答えを述べよ…と言われた時、その場で即答する事は無理でも、かけ算というメゾット(=方法)を使えば答えが分かる。メゾットのネタさえ理解していれば14×9等の別の問題にも応用できる。

優秀なメゾットは将来を予測出来る。
例えば天気予報がそうだ。天気予報はメゾットを駆使して明日、一週間後、一ヶ月後の天気を予測している。気圧や風向き等のデータはその時々で異なるが、メゾットに従って処理すればある程度の確度で未来を予測できる。

★★★

科学的思考でないものとして社会的思考がある。
この多くは「データ」(=情報)と言える。

例えば「鎌倉幕府を作ったのは誰?」と言われた時「源頼朝」というデータを予め知っていなければ答える事は絶対に出来ない。「知らなきゃ答えられない」のがデータだ。クイズ番組がこの典型例だろう。

メゾットだとそういう事は起きない。先程も言ったが、23×13が分からなかったらメゾットを駆使すれば答えが出る。データは知らなきゃ絶対に答えられないのだ。似ている様でメゾットとデータは明確に異なる。

データの重要な側面は応用が効かない事だ。
鎌倉幕府を作った=源頼朝」という情報は固定化しか情報としてか存在できないのである。

科学的思考の別の見方

科学的思考はメゾットを追い求めるのが基本である。だが現実問題、殆どのメゾットは最適化されていない。現在あるメゾットはどれも「確からしい」レベルである。だから天気予報は明日の天気を間違える。だから天気予報士は今あるメゾットを更に確度の高いメゾットに出来やしないかとあれこれ考える。

従って科学的思考とは今あるメゾットを疑い、もっと良いメゾットはないか?と常に考える。こうした反復があるから10年前には予測できなかった事が今では出来るという結果に繋がる。

言い換えれば、科学的思考とは常に答えが複数ある状態(=メゾットが複数ある状態)である。複数あるメゾットの中からより確からしいメゾットが結果的に選ばれる訳だ。

社会的思考の別の見方

答えが一つしかない場合、それは社会的思考である。

世の中には分からない現象、事情がまだまだ沢山ある。しかし「社会的には答えが欲しい!」「答えがないと収まらない」といった状態に陥る時がある。こうした時、答えを一つに断定する手法が取られる。

イタイイタイ病がその典型例である。この病は未だに原因不明で科学的思考では解明されていない。こうすればイタイイタイ病の症状が出るという、一定のメゾットが確立されていないのだ。一応、日本社会はこの病の原因をカドミウムと断定した。しかし世界を見渡しても「カドミウムイタイイタイ病」という方程式が通用するのは日本だけである。

更に社会的に断定してしまったので「本当にカドミウムか?」「別の要因も絡んでいるのでは?」といった反復検証が出来ない。つまり改善が出来ないので、ただひたすらにカドミウムを監視するしか対策出来ない。メゾットが固定化し、検証も出来ない、応用の効かないデータとしてイタイイタイ病は日本社会に定着した。


社会的思考の場合、科学的思考の様な「複数のメゾット、答えが存在する状況」は好まれない。答えが複数あると社会全体が迷い、不安定化するからだ。皆が納得しやすい様に強引にでも答えを一つに断定するのが社会的思考である。理由はもっともらしければ何でも良い。



今、我々がしているのはどっちの思考?

答えが複数ある、より良い答えを求める科学的思考?
答えを一つに断定する、社会的思考?