炎上の原点

炎上の原理を書いた時

「絶対正義がいつ日本で当たり前となったか、恐らく最近の出来事であり歴史的に思い当たる点としては、幕末からの天皇絶対の信仰だ」

と書いた。今回はここを更に掘り下げてみる。

★★★

まず幕末まで日本には「絶対」という発想がそこまで定着しなかった事実を挙げておく。

簡単で手頃な例は江戸幕府そのものである。幕府はそもそも「日本の政府」ではない。江戸幕府は他の藩のやることに指図出来ず、出来る事はあくまでも江戸幕府の領地内の決め事だけ…言わば局地的政府機関である。確かに江戸幕府は「ご意向」やら「権威」の塊の様な機関であり他藩も無視出来ぬ存在であるが、絶対的な存在ではない。

当時の天皇家はどうであったか。学校では征夷大将軍という事で天皇が幕府を認める点を強調する。実体は幕府だが形式的には天皇が絶対だと。調べてみるとこれも怪しい考え方で天皇が決めた祭儀等の形式的なものまで幕府が口を出して幕府の意見が通っていたりする。天皇が絶対ならこれは反逆であり大罪であるが、どうも当時はその様な主張をした人間はいない。天皇家も将軍家もどっちも存在する、それでいいじゃないか…というのが当時の認識の様だ。

では庶民はどうであったか。藩に絶対であって藩が危機なら命を投げ出してこれを救おうとしたのか。…この手の人間もどうやらいなかった。いわゆる下関砲撃事件で、イギリスが長州の砲台を占領した時、真っ先に百姓・町人がイギリスへ商売しにいったという。自分の藩が責められ占領された時、庶民は知らん顔をしていた訳である。これでは藩は絶対とはいえない。

以上の例からいって絶対はなく、まあいいじゃないかという感じの「なあなあ」が支配的な発想である。


では天皇絶対は明治に突如出てきた発想なのか…そうではあるまい。江戸時代から細々だが「天皇絶対」の種は蒔かれており、それが幕末に芽を出し明治以降に花を咲かせたと考えるのが自然である。

★★★★

長い江戸時代からどうやって天皇絶対の思想の「種」を見つけるか。場当たり的に探すよりもその花から逆説的に探していくのが効率的だろう。何時の世も庶民は種に興味を示さない。興味を示すのは花であり、これなら記録を辿るのは容易である。という事は種を蒔かれた江戸ではなく花が咲いた明治〜昭和初期を注目すれば良い。


花…いわゆる「天皇絶対」で凝り固まった思想の「シンボル」は誰か。
ここで皇居にある楠木正成に注目せざるを得なくなった。この銅像は1900年に建てられた。皇居にデンと建てるからには、国民の思想のシンボルと言って問題なく、また時期的にもピタリと一致する銅像である。

彼は典型的な「天皇絶対」の思想であり、戦前は教科書に必ず登場、軍歌にも楠正成、札にも楠木正成、幕末の志士たちの理想像もまた楠木正成というからその思想が与えた影響力は計り知れない。恐るべき花である。


彼の生まれた1294年から死ぬまでのの行いの何がそれほどまでに国民の思想に影響を与えたか。この探求は興味深い。ネットとは便利なモノで調べるのは造作も無かった。


★★★


ここで私は恐るべき過ちを犯した。
楠木正成は1294年に生まれ銅像が建てられたのは1900年であるという基本的な事実である。思想の種が蒔かれたのを1800年と仮定しても400年〜500年は放置された人物である。つまり死んでから400年〜500年後、再評価され遂には国民の理想とされた人物なのだ。この場合、楠木正成を注目するのではなく、「楠木正成を再評価した人」に注目せねば思想の種へは近づけまい。


楠木正成を再評価した人はだれか。
銅像を建てたのは住友家であるが、便乗しただけで特に意味はあるまい。


…まさかあの国民的な、超長寿番組の主役が発見したとは思わなかった。



水戸光圀公である。