科学は信頼しなくて良い

何が悪か

それは無自覚に他人を悪に仕立てる人であろう。理由も無しに人を罵倒する…これは性質が悪い。

STAP細胞の場合更に意味不明だ。
誰もが一度は両手を挙げて、嬉々として友人に紹介ないしは注目の話題として話した。日本の科学は凄いだとかリケジョだとか割烹着だとかで大いに話題になった。日本の理系は凄いという空気で一色だった。次の瞬間、平気な顔で罵倒しだした。意味が分からない。

「一度は大いに話題にした」彼らはまずゴメンナサイを言うと思った。誤った情報を流した、軽はずみに宣伝してしまって申し訳ない、情報のチェック体制が甘かった…等の言葉を期待した。ところが現実は違った。「大いに話題した」彼らは次の瞬間に何の悪気もなく罵倒に参加したのである。

これは実に奇妙だ。彼らは「今日賞賛し、明日罵倒する」状態に矛盾を感じていないのである。あんなに嬉々として騒いだ後に間違っていたと分かれば、後ろめたさからSTAP細胞の話題をするのを避ける筈だ。それが全くない。客観的に見れば「今日賞賛し、明日罵倒する」という行為は「自らは何も考えてませんでした、周りに流されていました(テヘっ)」と証明している様で非常に滑稽である。


何が悪か
それは無自覚に他人を悪に仕立てる人である。もっと最悪なのが「何の考えもなしに」他人を悪に仕立てる人だ。無自覚でも何か思い当たる点があれば自然と会話のトーンが下がる。何も考えなしだとトーンが下がるという事すらなく、逆にヒートアップさえする。彼らは悪気も無く、理由もなく相手を攻撃する。アイツは悪いやつだ、悪いやつを見つけて説教する私は偉いとでも思っているのだろうか。

これが最悪の正義感「サタン」だ。

★★★


さて、前回までの思考結果から言えば「信」が「絶対性」を保持した時にサタンが創出されると考察した。結論から言えば西洋ならこれでいいかも知れないが、日本では如何なものか…という観が否めない。

日本は信教と言論を峻別する気があるか…全く無いように思えるのだ。アメリカの大統領は聖書を片手に演説する事があるが、日本の総理が南無妙法蓮華経をもって同じことをすれば失脚するだろう。これは政治家の問題だけではなく、社長・役員・部長を初め、メディアも同じで、ある団体を猛烈にプッシュすれば庶民は感覚的に嫌悪する。従って日本社会では上層部に行けば行くほど「公正・中立・無神論」を求められる。つまり信教の自由は実質的にない。じゃあ日本は知で全てを処理しているのか…否。簡単なミスでも「我が社の信頼が」という話になる。理研の時もそうでまずは「日本の科学の信頼が」「日本国家の科学の威信が」という話になった。


日本は言論と信教の自由が未分化なのではないか。
科学的信頼という言葉を我々はよく使うがこれこそがその証明だ。というのも元々、科学とは信頼の必要性のない学問なのである。

簡単に説明する
例えば水は100度で沸騰する。貴方はこれを信じなくても良いが、信じなくても水が100度で沸騰する事実は変わらない。貴方の信じ方の度合いで沸点が99度になったり200度に変わったりする事はない。これが科学の基本的な態度である。仮に103度で沸騰した、この事実を周囲に報告したらどうなるか。バカにされる等、貴方の信頼は全く問題にならない。103度で沸騰した原因は何か(異物混入か、計測機器の誤りか)という「知」の問題で終わる。仮に東大教授が新発見をした。この場合原則として「小学生の新発見」と同じように対処し、東大教授だからノーチェック、小学生だから5重チェックという事はない。信頼は問題にせず唯一「再現性」のみを問題視する。

つまり科学という学問は純粋な「知」を相手にした学問であり、これは明確に「信」と分離しなければ発展出来ない仕組みとなっている。従って「科学」と「信頼」は本来くっついてはならない概念なのである。科学的信頼と書いてあれば笑えばいいし「あの科学者は信頼出来ない」と言ったら「貴方に信頼される必要性がそもそもない」と言えば良い。*1


初めに戻ってサタンはどういう時に創出されるか。
科学と信頼…「知」と「信」、「言論」と「信教」が一瞬でくっついてしまうのは日本だけの問題ではなかろうが、何か伝統的な価値観が強烈に作用しているのは間違いない。「知」と「信」が未分化で明確に分ける癖がないのでは区別の際に不便であるから、何か別の軸を探すしか無さそうだ。

*1:勿論全てが理想通り行けば良いがそうでない場合も多々ある。例えば人は多くの事実があると判断に迷う。この時物事を見る時の便利な指標として信頼であったり入会金等などは利用される。