信教・言論の自由

今までの成果を示せば次の様になる。

これは現状の成果であり図で見ると不十分さが際立つ。現時点では2軸だが、これを3軸、4軸と増やす必要性があるだろう。

この図をみて「私は左下を目指す」という思考は誤りであり、現実的に可能な事は上ブロックから下ブロックへ以降する努力である。というのも自分の価値観や思考を知識として体系化する必要性は個人のレベルではそうそう必要なく、少なくとも自分の考えは全ての人に通じる全能のものではないと理解すればそれで十分な場合が多いからだ*1

★★★★

この図を見て非常に興味深い分け方をしたと思う箇所がある。「神話」と「宗教」をそれぞれ知と信に分けた事である。本来これは2つで一つの機能を果たすと漠然とだが考えていた。神話と宗教をそれぞれ分けるこの分類に非常に怪奇的な見方をしつつも「やむなく」図に穴埋めした。神話と宗教をセットの機能だと仮定すると、考えられるのは「神話と宗教」→「価値観・思想」→「知恵・体系化された知識」であり、一軸での図表現が可能だ。サタンの居場所がなくなるがその場合自分の分類が誤りである理由になる。

図に書き忘れたが上が絶対性、下に行くほど相対的だ。

★★★★

どちらが正しいのか。こういう場合、ある状況にどうなるのか(どうならざるを得ないのか)を示す実験を行えば良い。勿論、実験といっても全てが空想である必要はない。人間には歴史があるのだから探せば最も参考になる例はあるはずである。無かった場合に限り推測・類測という形で思考実験を行う。


調度良い例が「モンキートライアル」だ。これは「体系化された知識」が「宗教・神話・聖典」に抵触した場合の反応を示す具体的事例である。1軸図で考えた場合可能性として「体系化された知識が宗教・神話・聖典」を変えてしまうパターンと「宗教・神話・聖典が体系化された知識」を変えてしまうパターンがある。興味深いことに、モンキートライアルにおいては前者も後者も発生しなかった。

進化論は聖書の創造論を書き換えた事実は無い。同時に聖書は進化論を書き換えた事実もない。後者に関しては「採用しない」とか「悪魔の理論」だとかのレッテルは貼ったが、「聖書の世界観に合うように進化論をねじ曲げた理論に変えよう」という現象は発生していない(探せばあるかも知れないが主流になっていない)。

結局モンキートライアルはどの様な結末を迎えたか。簡単に言えば「進化論を研究し」「キリスト教を信じる」という状況を生み出した。これは神話と宗教が合体した1軸図では説明できない。しかし2軸図ならば上手く説明できる。研究は当然に知の分野であるが「信教の為に研究出来ない」という状態も「研究の為に信教出来ない」状態…何れもない。別例を求めれば聖書学という実例もある。従って進化論提唱当初の混乱ーこれがモンキートライアルであるがーはこの知と信の峻別が上手く言っていなかったが次第に知と信で分離した現象だ。


★★★


この信と知の分離こそ「言論の自由」と「信教の自由」の存在理由、存在に至った経緯だろう。言論の自由が叫ばれれば信教の自由は無く、信教の自由が叫ばれれば言論の自由は無くなる。そして両者はーここが難しい所だが、足して二で割る状態ではなくー峻別され独立して存在しなければならないし、それを当然の状態と認めなければならない。

*1:最もそうでない人もいる。諸外国へ行き、自分の考え・価値観を知識として伝える人である。こういう人は信を知に変換する努力を必要とする。この様な信→知への変換で最も便利なのは古典で、互いの神話や聖典から価値観の相違を見出す手法だ。日本はこの点で弱い