責任範囲

前回、「結局、別の軸を探すしかない」という話をした。小保方氏に対する事件の流れを見る限りこれは正しいと思える。というのも、STAP細胞のイザコザは検証実験に対する費用を小保方氏に請求できないか…という風に進展しているからだ。これは科学的でない。検証実験で期待する事は「再現性を図る事」であり、検証実験なき科学はあり得ない。検証実験は無駄だった、だから費用請求するとなったらあらゆる研究はストップしてしまう。

勿論、実験ノートの不備という問題もあるが、ならば責任の範囲は不正があった場所に限定されるべきだ。現状は、彼女が関わった実験全体にまで拡大解釈されて責任を追及されているが、そこまで責任を拡大する必要性はない。



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さて、別の軸をどうするか…であるが、要点は「責任」である。今回は全範囲の責任を追及される流れであるが、世の中は当然、そうでない場合もある。かなり限定的に責任範囲を決定する事もあれば、逆に責任範囲が消失して事実上無罪放免となる事もしばしばある。この「責任範囲の力学」を追跡すればある程度、炎上の原理が理解できると思われる。

ではこの「責任範囲」という軸を使うと炎上はどう定義・表現できるか。
あらゆる行為が非難される状態で「皆が責任範囲の拡大を妥当とする状態」だと言えるだろう。勿論、責任は適切は範囲に対して追えば良いのが正常な姿である。しかし現実はそうではない場合もある。個人がターゲットに責任範囲の拡大を求める…というレベルならまだ良い。集団がターゲットに責任範囲の拡大求める様になると…ターゲットになった個人はなす術なく数の暴力に晒され、負いきれない/負う必要のない責任を持たされ、最終的には失脚する形になる。

炎上のサタンとは、「異常な責任範囲を追及し、自身はその異常性に無自覚」と言える。従って、場合によっては事件とは関係のない過去の汚点を引っ張ってきて非難しても当然という様な状態にもなり得るし、これは炎上の現場で良くある。やっている本人は自身の行いの異常性に無自覚で、むしろ正義感に溢れているといった顔をしていることさえある。図にすると次の様になる。


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定義ができたら次は調査法であるが、今回は妄想に頼る。即ち小保方氏が救われるパターンを想定し、それと現実との差異から力学を探る。というのも、炎上ばかりを眺めても前提条件が一定でない事が原因で力学が見えてこず、成功例を見ても同様なのである。従って妄想に頼るのが手っ取り早く、こういう手法は「教訓を生かす」という言い方で我々が日常使う手法でもある。要は、小保方氏はこういう誤りを犯したが、こうすれば誤りは拡大せずにすんだ…という所に着目する。ただ、妄想に頼るといっても不確実性を限りなく取り除くことは出来る。というのも、社会的合意のある言い回しであれば、それは妄想ではなく限りなく真実に近いだろうと期待できるからである。

従って社会的合意のある「教訓を生かす」から力学を調査していく。