「菊と刀」における恥辱(ハジ)
貴方の人生の評価は既に決まっていて、天国にいくか地獄にいくかも既に決定済み。どうやっても覆る事はない
もし、このような事を言われたら貴方はどうするか。大抵の人は
「だったら、頑張らない。万が一天国に行けば儲けもので、地獄に行っても仕方ない」
と答えるだろう。
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日本人論を描いた本の中でも特に印象的だったのが「菊と刀」だ。少なくとも15冊程度は日本人論に関する本を読んだが、これが最高傑作だと思う。この目線で日常生活を眺めるとまさにその通りなのである。
- 作者: ルース・ベネディクト,長谷川松治
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/05/11
- メディア: 文庫
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だが誤解も多い本の様で、ネット等で調べても余り良い評論は出てこない。というのもこの本は
・日本を訪れた事のないアメリカ人が(誰が)
・アメリカで(どこで)
・日本人論を(何を)
・終戦直後に(いつ)
・アメリカ人に日本の人生観を理解させる為(なぜ)
という条件だからである。この条件だけでも誤解させそうだが、これに
・日本人が読みやすい様に手直しされた本でなく、あくまでも翻訳(どのように)
が加わるのだから尚更である。特に翻訳に関しては問題も多い。アメリカ人向けに書かれた本なのだから言葉の細かな意味、ニュアンスもアメリカ人の理解に準じているのは当然である。だが、翻訳者はほとんど全ての言葉を馬鹿丁寧に日本語にし、アメリカ人が持つ言葉の細かな意味、ニュアンスを伝える事を怠った。例えば第十章の
日本人は恥辱感を原動力にしている。明らかに定められた前項の道票に従いえない事、色々の義務の間の均衡を保ち、または起こりうる偶然を予見出来ない事、それが恥辱("ハジ")である。恥は徳の根本である、と彼らは言う。
なぜ恥辱にワザワザ「恥辱(”ハジ”)」とカタカナを入れたか?アメリカ人の理解する恥と日本人のそれとは違うと強調するためである。だが全て日本語に訳したお陰で、この強調に気付きにくくなった。翻訳のミスである。無理に日本語にしないで、重要な単語は英語で表現し一部分だけを日本語に直せば良かった。
★★★
以上の様な問題点を考慮した上で、菊と刀が述べる恥を解説してみよう。まず筆者は言葉の概念を読者に与える。
さまざまな文化の人類学的研究において重要なことは、恥を基調とする文化と、罪を基調とする文化とを区別することである。
当然だが、罪の文化、恥の文化の2種類にはっきり分ける事は不可能である。
恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思いこむことによって恥を感じる。いずれの場合においても、恥は強力な強制力となる。
筆者は恥はどの文化にもある事を述べている。当然、罪の文化のアメリカにも恥の意識があり、結論として上記の文章を書いている。そして次に来るのが
日本人は恥辱感を原動力にしている。明らかに定められた前項の道票に従いえない事、色々の義務の間の均衡を保ち、または起こりうる偶然を予見出来ない事、それが恥辱("ハジ")である。恥は徳の根本である、と彼らは言う。
という上記の言葉である。注目すべきは「強制力」と「原動力」という二つの言葉で、この2つを用いて2次グラフを描いて読者に微妙なニュアンスの違いを伝えようとしているのである。
要は、アメリカ人にも恥の意識はあり、恥をかかない様に行動を「強制」されている。しかし恥が行動の「原動力」になるとは思ってない。アメリカ人にとって強制力があり原動力を担っているのは「罪」の意識なのである。日本人にとって強制力があり、原動力にもなるのが「恥」であり、この点でアメリカ人の意味合いと違う。そこで強制力があり原動力にもなる恥を「恥辱(ハジ)」として強調表現した。
★★★
では罪が強制力を持ち原動力にもなるとは具体的にはどういう事なのか?
ここで、ブログの冒頭の言葉を思い出してみよう。
貴方の人生の評価は既に決まっていて、天国にいくか地獄にいくかも既に決定済み。どうやっても覆る事はない
もし、このような事を言われたら貴方はどうするか。大抵の人は
「だったら、頑張らない。万が一天国に行けば儲けもので、地獄に行っても仕方ない」
と答えるだろう。
これは、聖書の終末論である。最後の審判によって人は裁かれ、今までの行いの罪を清算する…という考え方で欧州の常識的発想である。日本人にとって罪の意識はこの答えに集約される。要は神様のいう事だから「強制力」はある。しかしどうやっても原動力にはならないのである。
西欧ではこうはならない。というか、終末論が気になって夜も眠れず絶叫したり、免罪符といって「罪を免れる」有難い紙切れを大金をはたいて購入している。これを批判してルターが宗教改革を行いプロテスタントを結成し、これに対抗してカトリック側も大規模な戦争やらルターのネガキャンを行い……そして最終的にプロテスタント達は土地を変えて自分たちの理想を実現しようとしアメリカ新大陸を目指した。その間に勤労観やら科学技術が飛躍的に発展したのは承知の事実である。これが罪の意識が強制力を持ち、同時に原動力を持ったという状態で「終末が決まってるなら努力するだけ無駄」とする我々には理解しがたい意識である。
この様に強制力と原動力の2つの概念で巧みにそれぞれの国の考え方の違いを明らかにした。この業績はあっぱれである。ほとんどの人はここを「罪と恥の対立」という風に読んでいるのが残念である。ここは「ある種の概念がどこに位置付けされているか」という比較なのである。
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強制力と原動力になるのが「恥辱(ハジ)」である。しかし、この種の恥辱(ハジ)は日本特有なのでなく、ニューギニアおよびメラネシアの未開民族の間にもあるらしい。ここら辺はさすがに学者であり、知識が広範囲に及んでいる。ではこれらの国と日本は同じか?違うらしい。回数が違うらしい。ニューギニアおよびメラネシアの未開民族の場合、この「恥辱(ハジ)」の回数を最大化する事に注力する。
ある村が他の村に向かって、お前達は貧乏でたった10人の客にご馳走できない、お前達はけちん坊でタロイモやヤシの実を隠している、お前達の指導者は間抜けだからやろうとしても宴会も出来まい…という調子でさんざん罵倒する。すると挑戦された村は豪勢な誇示と歓迎で来会者一同の度肝を抜く事によってその汚名をすすぐのである。
結果として「これらの部族を礼儀正しい民族と言った人はいまだかつていない」という状態になる。
日本は真逆で、この「恥辱(ハジ)の回数を最小化する事に注力し、そこに日本文化の特徴があるとみている。恥辱(ハジ)を最小化にする文化的特徴として筆者は例を幾つかあげている。例えば
・日本の小学校では生徒を落第させてもう一度同じ学年をやらせる事をしない
・学校の成績表は学業成績によるものではなく、操行点を基準とする。
・どんなところにも姿を表す仲介人の存在。縁談、給食、退職などあらゆる場面で出てくる。
結果として「日本人は礼儀正しさの模範である。そしてこの様な顕著な礼儀正しさは、彼らが汚名をすすがなければならない様な機会をいかに極端に制限しているかを測る尺度となる」という状態になる。
先ほどの強制力と原動力の2軸に加え、更に回数という軸を加え日本人論を完成させている。ここを理解した上で、「忠」や「義理」「汚名をすすぐ」「各々其ノ所ヲ得」を改めて読んでみると、かなりスッキリと筆者が述べる日本人論が見えてくる。この様に理解していけば日本人論を知りたい人にとって「菊と刀」は相当に有用な本である。