二人称の世界

社会的合意のある「教訓を生かす」に着目すると、どうしても分岐点とも言える名言(迷言?)がクローズアップされている事に気がつく。それは

STAP細胞は、あります」

という言葉だ。社会的にはこれが誤りの大元と見る解釈が多く「とりあえず謝っておけば良かったのに、『あります』と突っぱねたばかりに…」という意見が多い。「とりあえず謝っとけ」は日本では良く言われる事で、予め謝っておけば責任範囲はかなり限定的になり、謝らないと理不尽に責任を被らされる事も体験談としても納得出来る話である。

ではこの力学はどうなっているのか?

ここでイザヤベンダサンの見方が非常に的を得ていると思われるので紹介する。


イザヤ・ベンダサンbotまとめ/【「私の責任=責任解除」論②】/日本人が幼少時より「尻から叩き込まれている」日本教の教義とは? - Togetterまとめ

イザヤ・ベンダサンbotまとめ/【「私の責任=責任解除」論④】/どうして日本は中国問題で何度も失敗を繰り返すのか? - Togetterまとめ


前者は謝りの効能を端的に示している。日本にとっての罪とは「謝らない事」という一点に尽き、不当な行為ではないという事である。

後者は、どうしてそうなるのか…の図式化である。

要約すれば、「ゴメンなさい」「いや私も悪かった」といって二人称の世界(=話し合いの席に付く)に入らない限り、責任範囲が適正になる事がない…である。


★★★★


以上の事を念頭に置き、小保方氏の救われる道を端的に示すと

  1. 小保方氏「ごめんなさい」
  2. 理研が「我々にも落ち度があるかも」
  3. 小保方・理研「今後は〜」

という事だ。そしてこれを世間は期待した。従って世間は「STAP細胞」という科学的知識に無知で良く「謝るか謝らないか」に着目するだけで良い。誠にその通りと言える一面があり、初期段階で謝って理研との和解の雰囲気になれば(これをイザヤベンダサンは二人称の世界と言ってる訳だが)我々の関心も急速に失われた可能性は高い。


二人称の世界に入り込めなかった。その後の出来事は承知の通りである。
あたかも「理研」と「小保方氏」の様な構図になってしまった。小保方氏はあらゆる集団/ネット住民からあらゆる過去の経歴を揶揄され、非難の声にさらされた。過去だけならまだよく、現実世界の行動の一挙手一投足を監視され…また揶揄された。理研も非難されたが分散して耐える格好であるのに対し小保方氏はそれを一人で受け止めなければならなかった。

完全に責任範囲が拡大している。本来であれば実験ノートや研究手順が非難され、それを責任範囲とするのが適正な姿である。それを超えて全ての過去と今の行動に注目し非難する必要があったであろうか?全くない。だが、当時はそれが適正だとみなされた。

まさに炎上である。


逆に「二人称の世界」に入り、理研と小保方がタッグで問題解決を目指す姿を示せればどうなるか。…ここから先は妄想なので確信はないが、経験談から言えば「自分のケツは自分で拭く」なら周りから非難殺到されない。



小保方氏の何が失敗かと言えば「謝らない事」でありこれによって「二人称の世界」に入ることを妨害した/遅れた事に尽きる。ベンダサンも指摘しているが、罪を犯した者がする事は何がなんでも「二人称の世界」へと入り込む事であり、その為の最善策は「子供のとき尻から叩き込まれている」謝罪なのである。*1


★★★


ネット社会において、ネット上の人々と「二人称の世界」に入る事は至難の技である。というのも相手はそもそも二人称の世界に入る気がない場合が多く、それがネット社会で多く炎上が起きている要因だろう。

炎上の罵倒の特徴は最初に指摘した通り

興味深いのは周囲の人間(記者等)の余りにもくだらない的はずれな質問と、やたらと「お前も可笑しいと思うよな」という同調を求める会話だ。彼らはスタップサイボウという字面だけを知っており知識もない、何で怒っているかその理由すら曖昧である。その状態でなぜ批判するのか、理由が分からないのに同意を求められても苦笑いしか出来ない。

炎上の原理 - watakenn3の日記


結局何が言いたいのか分からない罵倒である。その罵倒を真面目に参考にして改善しても…恐らく炎上のサタン達は納得しない。




ではどうすれば良いか?
力学の要点は「二人称の世界」だ

うまく入れれば、適正な責任範囲を期待できる。
入れなければ、過度な責任範囲を持たされる。

*1:裏を返せば謝っても二人称の世界に入り込めないと悟った場合、日本人は謝らないという事だが、正にそのとおりだろう。その場合は、仲介人が入って仲介する事で二人称の世界へと移行させる