契約社会における2つの大切な事

我々は契約社会の中で生きています。

契約って言うと敬遠されがちですが要は「ルール」です。
憲法も法律も条例も全てルールであり「契約」と言い換えられます。
私たちは日本に生まれ落ちた瞬間に無条件で日本国憲法という契約にサインしています。同時に法律や条例などにも同様な処置を取られており、生まれながらにしてルールを守ることを義務付けられています。残念ながらこの契約を拒否したいのであれば日本という国に滞在してはいけません。外国に行き、日本以外のルールの下で暮らしていくか、本当にルールが嫌ならば国が存在しない所にいくとかして下さい。

まぁたいした事書いてないので普通は大丈夫です。


今回は「契約って何よ」って話です。


私が考えるに「契約」とは分解すると2つの要素に分けられ、どちらも切り離すことは出来ません。互いが互いを監視しあう関係だと考えてください。その2つとは「契約の内容」と「契約の監視」です。2つが揃って初めて「契約」と言える状態になるのです。この2つが正常に働かない限り契約に伴う「責任」という義務は発生しないのかな?っと思ったり。

1.契約の内容

契約とは「シンプルに書かれたルール」です。ルールを文章化しのが「契約の内容」となります。逆に言えばルール以上の事は求めないよ!と証明する文章でもあります。

(自分が考える)ルールの意味は次の通り

  1. このルールは憲法、法律、条例の下位思想である
  2. 上位思想を犯しているものではないと断言する
  3. このルールは最低限守るべき約束だけが盛り込まれている
  4. 貴方はルールを守る限り自由だ
  5. ルール外の事を強制する権力を持たない事を約束する

まぁ当たり前か。

契約が正しく働く限り人は限りなく自由を約束され、契約外の個性を認められる生き方が出来ます。

その為にまず大切なのは文章化されたルールと言うわけです。

2.契約の監視

ルールを文章化するだけでは残念ながらルールは機能しません。「ルールが正しく機能しているか?」をキチンと監視する必要性があります。監視なきルールが成立する場合とはいわゆる「性善説」的な考え方であり、人間の歴史が証明するように性善説は大衆をまとまらせるのには明らかに不得手な考え方です。

例えばプールでは「飛び込み禁止」とありますが、それらが正しく守られているのかを監督しているのが「プール監督者」です。彼らなしには「飛び込み禁止」というルールが機能しない事は火を見るより明らかです。本当は「プール監督者」がいない世界というのが理想でしょうがそれは数千人単位の世界では絵空事だと誰もが納得するでしょう。



契約を正しく働かせる為の具体的な力が「契約の監視」です。

ルールを作ったら守らせる努力をする…当たり前ですね。

この関係を図に表すと次の様になりますかね。

個人がより便利に暮らしていくためには平行な関係が望ましいですよね。2つの力の大きさが極めて対等に作用する状態というのが理想的です。

勿論これは概念を表したものであり、現実は多段的な構造をなしているので次の様な姿が適切かもしれません。

この個人がより高い位置に属し、広く平衡な地場を形成する事が豊かな契約社会と言えるでしょう。

日本の問題点は「契約の監視」を軽視する点


我々は「契約がキチンと守られているか?」という問題に相対した時、多くの場合監視側を軽視しています。


例えば派遣法では数年ごとに形式的に契約を分断して正社員化を避けたり、派遣社員でも適用されるべき年金や健康保険への加入手続きを怠ったり、様々な脱法行為が繰り返されています。

これらの問題の根源は「法律内容」でしょうか?「法律の監視」でしょうか?脱法行為が見逃されているという事は明らかに「法律の監視」側に問題があり「正しく法律が機能していなかった」として、我々が訴えるべき点ですよね。

ですが我々は派遣問題に相対した時「法律の内容」にばかり目を向け、「法律の監視」に関してはスルーしてしまいます。時には「だから規制緩和はダメなんだ」と論理を跳躍させ、法律そのものを否定する人がいますがそれは間違いです。

正しく法律を機能させた状態で「それでも駄目だった」ならば「だからこの法律は」と言えますが、法律が機能していない状態にも関わらず否定するのは退化の思想です。新しいことは何一つ根付かない社会となってしまいます。まず初めに我々が検討しなくてはならないのは「法律が正しく機能していたか」「その為の監視は十分だったか」という事です。

これは「男女共同参画社会」にも言えることですし、「労働基準法」にも大いに言える事でしょう。一人一票問題もコレに該当しますのでこの問題は憲法レベルから条約レベルまで幅広く存在していると言えます。


日本は監視がニガテなんですね。


先ほども述べたとおり「契約の監視」という概念は性善説によってまとまらない程の大衆社会を形成しない限り発生し得ない概念です。広大な土地と大量の人を政治的に治めようとしない限り必要としない概念です。おそろく日本の領土の狭さ、狭いコミュニティの歴史が「契約の監視」という概念を薄くしている要因なのでしょう。(それ故か狭いコミュニティにおいての「契約の監視」というのは極めて大きな力を誇ってる様に思えます)

契約という概念の発生

ところで、最近はやたらやたらと「規制強化」を叫ぶ人が増えました。「契約の内容」をきつくしろっていう意見ですね。ネット規制にしろポルノ規制にしろ…「規制強化」は何処を見て、誰の利益の為に行うのでしょうか?それは「規制に関係する権力者」です。そもそもルールとは権力者が庶民を従えようとしたときに発生する概念です。

ルール100個と1個では権力者の権限は全く違います。またルール100個あればその業界自体相当に守られる事になるので、権力者だけでなく、業界の人達も次第に規制緩和に反対!現状維持万歳!と言い出します。これが既得権益を構築する仕組みです。

「ルールを作ろう」という運動の大元は何時の時代も権力者です。


それではもう一つの要素である「契約の監視」の強化はどうなのでしょうか?
「監視を強化する」とは何処を見て、誰の利益の為に行うのでしょうか?それは「利用者の利便性」です。そもそも庶民が「権力者の創りだすルール」に反発して「個人の自由」を尊守する為の概念が「契約の監視」です。
「契約の監視」がキチンと行き届いていれば契約と「契約外」との区別がとても簡単になる為、人はより「契約外の自由」を謳歌する事が出来ます。逆に「契約の監視」がお粗末では、自由の境界線が曖昧になる為、権力者のいいなりになるしかありません。

「ルール以外の事はしたくない」という運動の大元のは庶民です。



今必要なのは「契約の監視」じゃないの?
「ルール以外の事はしたくない」って声を大にしないと豊かに暮らせないですよ