「空気の研究」の現代語訳その2

さて、この前の続きです。

2011-10-10 - watakenn3の日記

第二章 「固定論理」と「情況論理」

我々は言葉を操って、色々なモノと比較する。その「基準」やら「目盛り」やらはどこから来るの?というお話。「比較する」という発想は対象と対象に「共通する項目」を見つけ出しその「差」に違いを求めるという事である。時間を飛び越えて過去と現代を図ろうとするならば「過去」と「現代」で「共通する項目」を見つけ出さなければならない。

固定論理

というのは「非人間的なモノ」を尺度として使いましょうよ…という話である。代表格は「メートル法」であり、これは「地球」という衛星を尺度の基準として採用している。人間に出来ることは地球尺を扱いやすい様に「何万分の一」にして自己の生活の基準として考えるか…だけであって、人間にとっての便利、不便は第二の問題である。例え不便でも「地球尺」基準は変えられず、「目盛り」側を細分化して対処するしか無い。しかし宇宙の法則が乱れない限り「地球尺」は不変であり、過去と現代、未来において正確なモノサシとして機能する。


これが欧州の論理、固定理論である。メートル法の様に尺度を非人間的なものとし、これを絶対とすれば、この尺度の中で平等に個人を測れば良い。ヨーロッパ系の人々の「平等」とはつまりこれである。「盗み」は悪いという絶対的な尺度で律するなら餓死寸前だろうが罪であり、この尺度の前には富める者も貧しき者も皆平等である。この弊害による混乱が欧州の中世で度々起こったが割愛する。

情況論理

というのは逆で「人間」を尺度として使いましょうよ…という話である。江戸時代の長さ、重さの単位は「尺貫法」と言われるモノで、まさしく「人間的尺度」である。生活空間から逆に算出したこの尺は、外国人も居心地の良さに絶賛したらしい。

だがこれはどうも可笑しい。先ほど、「比較する」とは対象と対象の共通項目を比べてその差に違いを求める事だといった。しかしこの場合「基準となる人間」は一体どういう人物なのだろうか。当然のことながら、人間というのは個体差というものがあり、身長も体重もバストもヒップも違う。尺度の「基準となる人間」とはあらゆる面において「オール3」で無ければならず、そんな「平均人間」などどう考えても存在しない。地球と違って存在しないものを尺度として採用するというのは一体どういう事なのか。


ここで出てくるのが「情況論理」という「空気」の把握である。

簡単に言えば、「私は大きい」「私は小さい」=「だから皆の平均値はこれぐらいだろう」と勝手に自らを抑制(空気の抑制)し、最終的に固定した基準…これが日本人が基準とする尺度「情況論理」である。

それは絶対化された「虚無の人間」「オール3」「平均人間」を作り上げ、全員がそれに従うという「空気に支配」された情況が無ければ成り立たない尺度である。これが日本の「平等」の考え方である。そこに住む人々が等しく「空気に支配」されている限り、人間基準の驚くほどに居心地が良い空間で暮らせるのだからこれはこれで悪いわけではない。

「情況」という社会秩序

人々が「空気に支配され」それが情況となって基準になりえるならば、「盗み」が悪いとしても「餓死寸前であれば許されるんじゃないか」と全員が「オール3」的に思えば本当に許される世界だ。それはそれで素晴らしい。正に「友愛」の精神ではなかろうか。

しかし逆に活用すると「集団リンチ」が悪いとしても「全員が加担しているから」と「オール3」的に思えば本当に許されてしまう。こうなってしまうと「リンチされた側」はたまったもんではない。身体的に傷つけられた挙句、「お前が悪い」として誰も助けてはくれないのである。


ここで原点に立ち返ってみよう。元々、この尺度は「虚無の人間」を基準にしているのだ。従って「この基準は可笑しい」と言える筈である。「集団リンチ、いじめ、盗みは何時の時代も『悪』ではないか。何故許すのか」と固定論理的に言えるはずだ。

そうすると出てくる言葉が次の通りである。

  • 「あの情況では誰でもああするしかない」
  • 「当時の情況ではああせざるを得ず、今の情況でとやかくいうのは見当違いだ」
  • 「従って最も非難されるべきはああせざるを得ない情況を創りだしたモノだ」


ふむ…よく聞く言葉ではないか。そして「そうか、それじゃその基準で測ってみるか」となるともうその時点で議論に負けてしまう。我々は「現在の情況から当時を考察する」ことは出来ても「当時の情況下で当時を考察する」事は出来ないからだ。

我々は現在から当時の情況を「逆算して」、当時の情況「らしき情況」しか推測出来ない。計算結果は当時から現在に繋がるようにして作られた「虚構の情況」であり「比べる事の出来ない一つの基準」しか示せない。「虚無の基準は可笑しい」といって基準を示すように促したら出てくるのは別の「虚無の基準」である。*1


こうなるともうどうしようもないので頷づくしかない。「なら仕方ない」としか言えないのである。

「父と子の隠し合い」「劇場の閉鎖性」

「虚無の人間」「オール3」「平均人間」相手ではどうあがいても「空気に支配」されその時その時の情況に振り回されるしかない。「虚無」相手では頭を捻っても何も出てこない。だが待って欲しい。やはり「虚無の人間」は虚無の人間であり、存在しない。それを信じる人間は騙されている。そして「虚無の人間」というモノが万が一いた場合騙していると言える。何故「騙した!」「騙された!」という声が聞こえてこないのか不思議でたまらない。

この関係を端的に表すのが戦争時代の「現代神」として君臨された天皇陛下である。天皇陛下は「父」として、基準となる「虚無の人間」として君臨し「自らが人間である事」を隠し通す。日本人は「子」として君臨して「天皇が人間である事」を隠し通す。「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」という訳の分からない関係である。だが基準となるのはやはり虚無の人間であるのだからこれは「内心に留める事」が正解であり、それによって「虚無の人間」を作り出し正義と信実の基準となる体制を創り上げた。当然「天皇陛下もうちらと同じ人間じゃん」と言えるがそれを言ったらバッシングされ、非国民だと罵られるのは言うまでも無い。


結局の所「父と子の隠し合い」によって達成できる「虚無の基準」というのは劇場の様な閉鎖空間で無ければ成り立たない。役者は「役を演じ個人を隠し通す」、観客は「役者が個人である事を隠し通す」事によって成り立つ小世界である。開放空間ではどう足掻いでも「おかしくね?」という声が上がってしまい、「情況」という社会秩序の安定性が失われてしまう。


まとめると「情況」という「虚無の基準」を安定化させるなら「父と子の隠し合い」によって「劇場の閉鎖性」を持たせないとならない。


「正論だけど、それはいっちゃダメ」「正論だけど、なんかむかつくな」「お前が言うな」という言葉の節々に現れてくるのは「劇場の閉鎖性」が乱されたという感覚に対する訴えである。


結局日本はどういう国なのか

「虚無の世界」「虚無の中に真実を求める世界」であり、それが体制となった「虚無の支配機構」だという事である。そしてこの体制を維持しようとするなら否応なしに「閉鎖性」を求めなければならず、日本全土で覆うつもりなら「鎖国」しなければ成り立たない。

そして、この鎖国制は「論理的説得」では絶対に変える事は出来ない。論理的思考とは「固定論理」に基づいた思考方法であり、「情況論理」に生きる我々にはその声、説得力は皆無に等しい。

故に我々が変わるとしたら「情況」がガラっと変えなければ立ちいかなくなるな時、具体的な出来事で言えば「外圧」「黒船」「終戦」でしかない。

個人的考察

…はまた後で書きましょうか。

*1:これを防ぐには「24時間監視カメラを回し」「当時の情況を正確に記録する」しかない。