外国を理解する唯一の方法

個人的に「カミングアウトバラエティ 秘密のケンミンSHOW」が好きである。
「秘密なんてないよ」の一言の後に広げられる、県民独特の慣習を知る一連の流れがツボである。

一番良い所は「県民は通常の生活を取っている」という事である。カメラマンはその県民の生活をそのまま映しているだけである。
だが、その生活自体が、他県民からみればビックリ仰天な行動だというのが、良いのである。その後のインタビューの様子は非常に微笑ましい。

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我々は通常の生活を送っている。そしてそれが常識となっている。だが、この常識は世界共通の常識ではない。「その地域」の常識である。従って、地域の数だけ常識はある。常識はそれこそ無数に存在するのだ。


我々は移動する。移動すれば、地域が変わる。つまり常識が「変化する」。
ここで注意しなければならないのは「変化した」実感があるのは移動者だけという事である。元々住んでいた人間の行動は何一つ行動を「変化させていない」のだから実感もクソもない。

ケンミンSHOWで言えば「連続転勤ドラマ 辞令は突然に…」
で、はるみが部長奥さんの行動に「え〜!」と言ってる辺りだ。

つまり移動者は「その地域の通常の生活」をみて「常識の違い」に「気付いた」訳である。


この「気付いた」が今日の話の肝となる部分だからよ〜く覚えておくように。
気付いた方式とでも命名しとこう。


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一方で、この方式とは違う形で「他の地域」を眺める事がある。海外に関するニュースだ。

話題は海外なのだから当然常識は違う。しかも常識の食い違いは日本国内の比ではない。はるみの例で言えば、日本で「え〜」という態度になるのだから、常識が根本から違う海外ならば絶句の表情を浮かべる筈だ。

はずなのだが、海外ニュースに触れて絶句したという経験は意外と少ない。警官とデモ隊が衝突している場面を見ても「ああそうか、あっちは大変だな〜」ぐらいの気持ちで流し、不思議とすんなり受け流している事が多いのではないだろうか。


これはどういう事なのか。
簡単に言えば「我々の通常の生活(=我々の常識)」で相手を判断しているからである。つまり「その地域の通常の生活(=その地域の常識)」という視点は一切ない。欠如している。

先ほどのはるみの例では、その地域の通常の生活を見て、常識の違いに気がついたと書いた。
しかし海外ニュースの場合、あちらの行動は可笑しいと「我々の通常の生活(=我々の常識)」から判断している。我々の常識基準で判断しているのだから、日常生活の極ありふれた出来事であり、何も驚く事はない。つまり「気付かない」のだ。
…気付かない方式と命名しておく。

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決定的な違いは何か?
「その地域の通常の生活(=その地域の常識)」に触れたか…の一言に尽きる。その結果として「気付いた方式」「気付かない方式」となる。

感想は大幅に違う。
気付いた方式の場合…はるみの例で言えば「え〜」の態度の後に簡単な解説があり「そうだったんだ〜」と理解する。「その地域の常識」を理解した決定的な瞬間である。勿論、全ての常識を知った訳ではない。「え〜」の部分に関して少なくとも理解したのである。




気付かない方式の場合、感想が非常にひとりよがりとなる。警官とデモ隊が衝突している場面で例えるなら「あっちは物騒だね〜」やら「治安が悪い」「デモなんてするもんじゃないな〜」という具合だ。最後は「やっぱ日本はイイ国だ」というのが形式美となっている。

この感想は何を基準にして吐き出されているのかといえば、デモという文化がない「我々の通常の生活(=我々の常識)」である。何故デモをしているのか、そこまでして守りたいものは一体何なのか、我々と訴え方に違いは差はどこから来ているのか…等の発想は全く無い。我々の常識で感想を言い合って、その出来事は終わりである。

更に事を難しくするのが、気が付かない人向けに「より簡単に解説」した場合である。何で「より簡単になった」のかといえば、その地域の常識から語るのを止め、「我々の常識」から語ったから簡単になったのである。我々の常識に基いて解説されるのだから、違和感なくすんなり飲み込める。だがこれは結局「その地域の常識」を排除しているから、その地域の常識を正確に理解したという事にはならない。「我々の常識に基づいた我々が思うその地域の常識」という状態である。

この解説がなされた場合、不思議な事に「その地域全ての常識を知った」という錯覚を抱く。違和感がないから、その地域にいっても平気だと思い込んでしまうのだ。この状態のまま海外に行き「常識の違い」に触れたらどうなるか?「なんだあの国は。礼儀がなっていない!」という態度になる(=まだ「気付いてない」のだ)。解説を見て「自分はその地域の常識を知っている!」と思い込んでいるからタチが悪い。正しくない知識を最後まで捨てる事が出来ない…知識の修正が効かないのだ。現地の人に取ってみればひとりよがりのサイテーヤローなのだが、本人は自分を常識人だと思い込んでいるのだから救いようがない。


★★★★

結局、外国を正しく理解するには「気が付く」以外に方法がない。

同時に、これは日常生活でも注意すれば「気が付く」筈だ。ある海外ニュースが報道され、違和感なくすんなり喉を通ってしまうならばそれは「日本の常識に基づいた海外ニュース」である。どこかで情報が歪んでしまったのだ。これでは海外ニュースを幾ら読んでも気が付ける筈がない。その知識のまま外国と会話しても「ひとりよがりに理解している変な人」にしかならない。

それって「スシ!ゲイシャ!テンプーラ!HAHAHA」「ニンジャどこですか〜?」「貴方サムライですか?」みたいな感じで日本に来る外国人みたく、苦笑いしか出来ない状態って事。


「決して情報を歪まさせず、現地の様子を知りたい!」のであれば、現地人に聞くしか無い。現地の人であれば貴方の「あの事件は◯◯なんですよね!?」という主張に対して違和感を感じ、スグに「いや〜こういったコッチの事情があってね〜」と解説してくれる。知識が修正されるのだ。

残念な事に日本人に「海外のあの事件は◯◯が原因なんですよね!?」と尋ねても、日本人では現地の細かい常識は分からない。それよりもその場を何とか丸く収めようとする「日本の常識」が働いて「多分そうなんじゃない」という回答をしてしまう。知識は修正させず、間違った知識理解は更に強固に確立してしまうのがオチである。


世の常識を知りたければ現地人に聞くしか無い。
これが唯一の方法

こればっかりはネットは解決してくれません。

気が付きましょう。