ルールの形「法律」「マナー」

我々が住む国では様々なルールがあってそのルールに則って運営されています。キチンとルールに基づいてと運営されている状態だからこそ社会秩序が安定し、平和に過ごせるのです。これは国という単位じゃなくてももおんなじですね。台湾の様に未だに国として認められていない所でも同じことが言えますし、仕事関係にも当てはめることが出来る。幼い小学生のグループでさえ、ルールが存在している様に思えます。大なり小なりが違うだけで基本的な姿勢というのは地球上のどこに言っても同じなのでしょう。

「ルール」は破れば罰せられます。これは古今東西同じですね。


このルールですが、基本的に2種類あります。

  1. 可視化出来る「法律」の形
  2. 不可視化的な存在である「マナー」の形

1.の法律に関しては異論がないでしょう。法律を破ったら罰せられる。当たり前ですもの。
2.って何よって話です。


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例えば
「店に入ったらお水だけ貰ってサッサと店を出ていいだろうか?」

1.「法律」のみが世の中のルールであれば、もちろんしていい事になります。「注文なく来店しちゃダメ」「したら罰金」っていう法律はないし。何も注文もしないで水だけ貰って店出てもOKな筈です。だけど普通私たちは無理矢理にでも何か注文しますよね。「冷やかしかよ」って思われたくないし、何か悪いことしたみたいに錯覚するから。そして食べ終わって30分もすれば「店でなくちゃ」って気になりますよね。法律に書いてないのに。

もう一つ。
「駅のホームなんでキレイに並ぶのか?」

「キレイに行列を作らなくてはならない」なんて法律なんてあるはずありません。北朝鮮でさえこんな法律ないでしょう。ところが我々は普段これを守っていますよね。というか「守って当たり前」ですよね。法律に書いてないのに。

なんでこうした「法律」に書いてないことを守るのか?それは「マナー」だからです。それしか言い用がありません。私たちの伝統的な価値観、経験的な人生観によってもたらされる「良いこと」「良い行い」をする事もまた社会秩序を作る重要な役目になっています。


ルールですからマナーにもキチンと罰則があります。「村八分」や「ネット炎上」がその代表例でしょう。法律は犯していないが、社会的に抹殺される…その姿は罰則以外の何者でもないですよね。これは最も思い罰則ですが、もっと身近な例で上げれば「KY(空気読めない)」とか「ハブられ」とか。「リア充」でさえ行き過ぎればどうなることやら。因みに電車のホームで行列を乱したら「冷たい視線の集中砲火」の刑でしょう。…どうも「他人の目が怖い」って奴に「マナー」が多いように思えます。

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「法律」「マナー」

日本はどっちに重点をおいて国作りをしているんでしょうね。


アメリカはまごう事無きに「法治国家」です。法律が身近にありその権力は絶対です。どれぐらい法律が個人の生活に密着しているかというと、「かかりつけの法律家がいなければ生活できない」と思う程に法律は個人を戒めています。


日本も建前上はアメリカと同じ「法治国家」ですが我々の生活の中に「法律」がどれほどの意味を持つ存在だろうか。我々は普段、法律を意識する事ってありますか?ないですよね。普段の生活では法律なんて殆ど意識していない…「無関心とも言える立ち位置に法律を位置づけている」といっても過言じゃないですよね。「殆ど意識しないけど、一応存在する」その様は小学校の「今月の目標」の意味合いと変わらないようなw。


という事は我々の社会秩序ってどういう事になってるのかというと

不可視化な存在である「マナー」に支配されているということです。法律が空文、機能していなくても誰も気にもしないのは「マナー」が絶対的な存在だからです。その証拠に国家最高機関の国会では「不徳の致すところ…」とかいってマナー違反の報告会になっています。マナー違反をしていないかどうか…が国会の重要な局面を担っていたりと「国家最高機関」よりも「マナー」は権力を握っているように思います。



法律なんて飾り。偉い人にはそれがわからんのですよ!