グルーバル人材とはなんだろう

ふと考えた。グローバル人材という言葉が出来て久しいが一体どういう人を指すのか、そしてそういう人物を作るにはどういう施策が必要なのかという事。近年の日本はこの言葉をキーワードにして人材育成をしてきたといっても過言ではないが、改めて思うと自分でも理解が足りていない部分は多い。理解できないものになろうとしてもなれるものではない。だから今一度考えてみたのだ。

グローバル人材と聞いて初めに思い出すのが、楽天の「我社の中では英語を標準語にする。会議も全て英語で行う」という施策だ。今のところ、英語が出来る=グローバル人材という方程式が代表的な考え方に思える。しかし本当にそうなのであろうか。日本を代表する映画監督である「北野武」は恐らく日本が認めるグローバル人材だが、一方でメジャーリーグで長年活躍する松井選手の様に殆ど英語は話せないが世界を唸らせる人というのも多い。世界で活躍する日本人を観察すると英語が出来る出来ないだけでは無いというのはイヤというほど痛感するのだ。


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思想を揃える為にもグローバル人材のモデルを挙げておこう。先にも上げたがここでは「北野武」だとしたい。日本は勿論世界各国でその名を轟かせ、お茶の間を和ませ、時には感動させてきた。彼の様な人材が量産されるなら日本の未来はとびきり明るいものになるだろう。

彼を見て初めに思うことは「大常識人」だという事だ。あれだけムチャクチャな言動を繰り返したら一般人であればいつか大きな失敗を犯す事は目に見えている。しかし彼は小さな失敗こそあれ、基本的には大きな過ちは犯さない。それで若い時から白髪になるまで過ごしてきたのである。彼は非常に多くの人から支持される常識の世界で生きているからこそ、大きな過ちを犯す前に過ちに気が付き修正出来るのであろう。ああいう人材ならば何時いかなる場所、いかなるスキル持ちでも活躍できるだろうなと予感するのだ。そうだとすれば彼の様な人間を増やすには多くの人から支持される常識の世界、いわば「グローバルな常識」感覚を身につける事が大切なのではないだろうか。


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基本的に我々の生活はタコツボ化された狭い世界でしか通用しない常識で運営されている。「社内の雰囲気的に帰れない」「この部署の暗黙の了解」「この業界の常識では」等だ。こうした狭い範囲でしか通用しないような常識を我々は第一に考え生きている。最近ではこうした「業界びっくり常識」がSNSを通じて耳に入る機会が飛躍的に増え、実感している人も多いことだろう。

思い返せば小さな頃から「身内の問題は身内で」「学校問題は学校で」「社内問題は社内で」という風に、いわば「ローカルな常識」による問題解決方法しか経験した事はない。逆説的に言えば我々は組織にいる事を好み、組織に早く馴染もうとし、組織で問題を犯さない、いわば「ローカルな常識」人になろうと訓練されてきた。少し前の話しであるが、「大津市のいじめ問題」…あれも周りの大人が「グローバルな常識」を知らず、「ローカルな常識」で学校を運営していたからこそ、あそこまで深刻化したのではないだろうか。もし、誰か一人でもいいからグローバルな常識…つまり「警察に通報する」という行為を選択肢の一つとして真剣に検討しれいればあの痛ましい悲劇は防げたかもしれない。



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我々の日常生活では「グローバルな常識」を身に付ける機会が殆ど無い。狭い日本ならではの土地事情を反映した現象なのだろう。こうした状況で英語を身につけたとしても「井の中の蛙大海を知らず」で上手くいかないのは目に見えている。例え一時期上手くいったように見えてもいつか大きな失敗をしてしまう。だからといって失敗を恐れて井の中に籠っていたら本末転倒である。「問題になっては困る」からと社員のブログやSNSを規制する…というのは正に「井の中蛙大海を恐れる」なのである。


幸いな事に今は「世界的な常識」までとはいかないが、「国内の常識的な感覚」を身に付ける機会が飛躍的に増えた。Twitterにしろブログにしろ、インターネットというのは全世界に繋がっているのだからこれを通じれば現在の「ローカルな常識」の世界を少しでも広くすることが可能だ。昔は「グローバルな常識」を身に付けるという事はほんの一握りの人にしか出来なかった事かもしれないが、現在の社会というのは非常に恵まれていると改めて実感するばかりである。こうした恵まれた社会環境を積極的に生かし「グローバルな常識」と繋がる機会を社会で奨励していく体制作りこそが、グローバル人材を生産する為の最低限の条件ではないだろうか。